初詣。

近所のスーパーに食料調達に行きました。未就学児童と思しき年齢の男児が母親を呼びながら商品棚の間を必死で探しまわっていました。おそらく敷地の広さにテンションがあがり、目的もなく縦横無尽にあちらこちらしたせいで母親と逸れたのだと察しました。子どもはだいたい広いところに行くとこころがばかになるので概ねそういうことで間違いないと思います。数分後、乳製品のシマで母親と無事会えたらしく、近くにおれと言うたになぜ言う事をきかんか、と叱られるなどしておりました。叱られてはいましたが、しょんぼりしつつも男児は母親の腰にしかとぶら下がっていました。子どもというのはいつでも親を喪失する不安とともに生活しています。なんの根拠もなく、突然に「あれ、お母さん明日いなくなったらどうしよう…。」と考えるなどするものです。こころがしんでいることで有名なミキコフにもそういう時代がありました。というより、結構な大人になっても「かあちゃんがいなくなる。」という不安を持ち続けていました。幼少期、大人たちに年の初めには初詣というものに行って、賽銭を投げ、手を合わせて何か一つ願い事しなさいと言われ、そうか、初詣とは大事な事を1つだけ神様にお願いするのか、という認識を持ちました。そして毎年、年の初めに「かあちゃんが元気で長生きしますように。」と手を合わせるのがミキコフのルーティーンになりました。ミキコフの母はその母を幼少期に喪失した為、自分もその母の身罷った年齢を越える事ができないのではないか、という考えを持っていたようで、子どもミキコフに自分は比較的早くいなくなる可能性が高いので、そうなった時の心構えをしときんさいよと語って聞かせました。「人間はみんないなくなるんじゃから、それが早いか遅いかの違いなだけで、なんも悲しい事はねえんよ。」子ども心に「そういわれても困るなぁ、心構えしたくねぇなぁ。かあちゃんがいなくなったらかなしいから困るなぁ。」と困惑したものです。そのようにして、かあちゃんがいなくなる不安を後生大事に抱えたまま大人になりました。かあちゃんは病気になりました。今年から初詣に行くのはやめました。あんなもの意味がない。さらに言うなら、行かなくてもおれはじゅうぶん心が整っている。整い過ぎてちょっと困るぐらいです。みなさんは整っていないと思うので、初詣行った方がいいと思います。以上です。