還暦祝いと協調性。

先日、大学のゼミでお世話になった(?いや、むしろ介護したかもしれません。)講師が還暦をお迎えになったということで、OBが40人近く集まりお祝いをしました。幹事の方から、同期の方を誘ってくださいというメールが来まして、もちろん1人では場が持たないので誘いました。しかし同期で連絡が取れるのは、なめどのただ1人であり、もしなめどのが行かなければ挨拶してさっさ(佐々ではありません)と帰ろうかと思っていました。いえ、別に先生が嫌なわけではなく、そういう場が大変苦手で、できるだけ目立たないところに陣取りそっと祝ってそっと去りたい。で、実際そうすると後日先生に説教されるのですが。そんなわけでなめどのと共に参加し、2次会は遠慮しまして場所を変え二人で談笑しました。「アシッドマン」「いちごさん」という固有名詞が比較的多く語られましたが、感動のふり幅についても語りました。わたくしは最近、己がふり幅が比較的狭いということに気づきまして、そのように申しましたところ、なめどのより「いや、感動のふり幅は一般的なんだけど、感動の表現のふり幅が狭いよね。」と返されました。はー、やっぱりー?合点がいったわー。そうよねー、どう表現していいのかわからないことが多いのは感情が薄いからだと思ってたんだけど、表現ねぇ。そっちに問題ありなのよねー。集まりのようなものが苦手なのはそこなのですよ、つまりは。なんかこうまわりの盛り上がりに並走できないがゆえに、場の雰囲気を壊しかねない(実際友人の結婚式の二次会で話しかけてきた方を図らずも興ざめさせてしまったことがあり)、ということを考えているおれさま自身が面倒くさいのでした。めんどくせぇなぁ、おれ。ああ、なめどの。君はすごいね。おれはおれのことなんて何にもわかっちゃいないんだよ。おれは仕事運(会社運)には若干恵まれていないけれども、友には恵まれたものだよ。人生に良き友はあらまほしけれ也。そんな一日でした。